第64回 「桜田門外の変の真相?その壱」
4月10日(水)のNHK総合テレビ「歴史探偵」にて、龍馬暗殺と並ぶ幕末最大の事件「桜田門外の変」が取り上げられた。新資料が発見され、謎に包まれていた事件の真相が明らかになり、従来のイメージが大きく変わろうとしている、との触れ込みだ。
桜田門外の変とは
桜田門外の変。安政七年(1860年)3月3日。季節はずれの大雪の中、水戸脱藩士17人、薩摩藩士1人、総勢18人が江戸城の桜田門外で大老井伊直弼を襲撃する事件。背景に、将軍継嗣問題と日米修好通商条約問題が挙げられている。
江戸城の真ん前で、時の最高権力者である大老を、しかも関ケ原以来、徳川軍団の中でも最強の誉れ高い譜代筆頭の赤備え・彦根藩の藩主を、御三家の水戸藩を中心とした、たった18人の浪士が襲撃したもので、幕府の権威が大きく崩れ去った事件である。現代に置き換えると、皇居前の警視庁の真ん前で、内閣総理大臣が、しかも統合幕僚長出身が、保守党議員の、たった18人に、と言うことになる。
井伊大老登城の供回りは約60人。彦根藩邸(現在の憲政記念館)から桜田門(現在の警視庁前)までの約400mをかごに揺られながら進んでくる。18人の襲撃部隊は、沿道の茶屋などに潜む。現場のリーダー関鉄之介は桜田門の橋詰に立つ。
行列が門前の橋に差し掛かった時、辻番所から森五六郎が直訴状をかざしながら行列に近づき、いきなり斬りかかる。行列の先頭が立ち止まり、列が乱れ、足軽たちが逃げ出す。かご脇を固めていた徒士たちの大半が先頭へ走る。と、その時、黒澤忠三郎による一発の銃声が鳴り響き、水戸浪士たちはそれを合図に一斉に斬りかかる。
桜田門外の変の謎
この事変には発生当時からいくつかの謎がある。一つ目は、待ち伏せをしていたのになぜ怪しまれなかったのか。それは、沿道では江戸町民らが雛祭りのため登城してくる大名行列を見物していて、襲撃者たちは、武鑑を手に大名かご見物を装っていたからだ。
二つ目は、最強のはずの彦根藩士がなぜ滅法弱かったのか。それは、雪で視界が悪く、供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたため、素早く抜刀する事が難しい状況にあったからだ。とっさの迎撃に出難く、それが襲撃側には有利な状況だった。加えて、供回りの多くは日雇いで、襲撃発生と同時に逃げ出してしまった。
三つ目。これが最大の謎だ。居合の達人でもあった井伊直弼がなぜ抵抗もせずに打ち取られたのか。この謎について、NHKの歴史探偵はどのような答えを導き出したのか。(次号へ続く)