第65回 「桜田門外の変の真相?その弐」
幕末最大の暗殺事件「桜田門外の変」。居合の達人でもあった井伊直弼がなぜ抵抗もせずに打ち取られたのか。その謎解きをしてみよう。
映画『桜田門外ノ変』の謎解き
2010年秋に公開された映画『桜田門外ノ変』。この映画では襲撃をどのように描いているのか。原作は、関鉄之介の日記を元にした吉村昭の小説。
かごに向けて放った黒澤忠三郎の銃弾はかごを貫通し、井伊大老の腰に命中。激痛と出血により自由が利かない。斬り合いで周囲が無人となったかごに薩摩藩士・有村次左衛門と広岡子之次郎が走り寄り、かごに刀を突き入れる。最後は有村が井伊大老を引きずり出し、首を取る。
NHK歴史探偵の謎解き
NHKの歴史探偵は、2年前に発見された鳥取藩士・安達清一郎の日記を新資料として紹介する。事変後、現場を指揮した襲撃犯リーダー関鉄之介は江戸から逃げてきて鳥取に潜伏、交流のあった安達に救援を求めた。
関から事変の様子を聞き取った安達は、自身の日記にその内容を詳細に記す。それによると、襲撃の合図のピストルを発砲すると、護衛の武士が15メートルほど退き、井伊大老は「ヒストンノ玉胸先ニ中リテ死シヲリヌ」。つまり、この日記によると、井伊大老は最初の銃撃で命を奪われていたことになる。
この番組を見た一部の人から、「映画『桜田門外ノ変』は作り直すべきでは」との声も聞こえる。
事変の真相
さて、関鉄之介の日記を元にした映画の描写と、鳥取藩士が聞き取った関鉄之介の口述に相違があるのは、どういうことか。事実関係からはっきりしていることは3つ。井伊大老が抵抗しなかったこと。首を取ったのが薩摩藩士の有村次左衛門であったこと。鳥取での口述が事変の1カ月後であったこと。
関鉄之介が日記を記した事変直後と、鳥取での口述までの間に何があったのか。実は、本来は事変に連動して薩摩が京に出兵するはずであったが、薩摩の裏切りで実現しなかったのだ。関はこの事実を鳥取入りする前に知り、心中穏やかではなかった。
そのような状態で関は鳥取に逃げ込み、安達清一郎に会う。その時、関は事変をどのように語るであろうか。当然、手柄を裏切り者の薩摩には渡したくはない。ただし、最後に首を取ったのは確かに有村。一方、井伊大老はかごから動いてはいない。これらの事実から、有村が切り込んだ時には大老は既に絶命していた、と言うことにしたくなる。そうなると、いつ絶命したことにするか。有村が切り込むまでは誰もかごに近づいてはいない。となると、最初の銃撃で命を奪われた、と嘘の口述をするしかなかった。
これが真相であろう。